【教員が発信を怖いと感じる構造】
怖い
「書いてみたい気持ちはある。でも怖い。」
教員が発信を始めようとしたとき、多くの人がここで止まります。
不思議なことに、忙しさよりも前に立ちはだかるのがこの感情です。
時間がないから書けないのではなく、怖いから書けない。
では、何が怖いのでしょうか。
この記事では、教員が発信を怖いと感じる“構造”を言語化してみます。
発信が怖いのは「評価される場」だと思っているから
学校の仕事は、常に評価とセットです。
・授業研究
・公開授業
・研究発表
・校内研修
教員は日常的に「見られる仕事」をしています。
そしてその多くは、評価の文脈と強く結びついています。
そのため、発信=評価される場
という無意識の前提が生まれます。
「間違ったことを書いたらどうしよう」
「批判されたらどうしよう」
「未熟だと思われたらどうしよう」
発信が怖いのではなく、
評価されることが怖いのです。
教員は「完成形」を出す文化の中にいる
学校では、途中経過よりも成果物が重視されます。
・完成した指導案
・整った研究紀要
・成功した実践発表
つまり、外に出るものは基本的に
完成されたものです。
だから発信しようとすると、こう考えます。
「ちゃんとまとまってから書こう」
「もう少し実践が増えてから書こう」
「もっと良い授業ができるようになってから…」
この思考の怖いところは、
永遠に書けなくなることです。
発信が怖いのは、書くことそのものではありません。
「完成形を書かなければならない」という思い込みです。
「公に出る言葉」に慣れていない
もう一つの大きな理由があります。
教員は日常的に文章を書いています。
学級通信、指導案、報告書、研究紀要。
でもそれらはすべて
閉じた範囲の文章です。
読む人が分かっている文章。
文脈を共有している文章。
安全な範囲で読まれる文章。
一方、ブログは違います。
誰が読むか分からない。
どの立場の人が読むか分からない。
どの経験値の人が読むか分からない。
つまり、発信とは
未知の読者に向けて書く経験なのです。
慣れていないのは当然です。
怖く感じるのも当然です。
「個人としての言葉」を出す経験が少ない
教員の文章の多くは、
組織の中の役割として書かれます。
・学年として
・学校として
・研究部として
しかし発信は違います。
一人の教員として書くことになります。
これは想像以上にハードルが高い行為です。
「これは学校の考えではないけれど…」
「自分の実践として書いていいのだろうか…」
発信が怖いのは、
個人として言葉を出す経験が少ないからです。
実は「怖さ」は自然な反応
ここまで見てくると分かります。
・評価文化の中にいる
・完成形を求める文化がある
・閉じた文章に慣れている
・個人として書く経験が少ない
これだけ条件が揃っていれば、
怖く感じない方が不自然です。
つまり、発信が怖いのは
意欲が足りないからではありません。
環境的にそう感じやすいだけです。
怖さの正体が分かると、一歩進める
発信が怖い理由が分かると、
見え方が少し変わります。
発信は
評価される場ではなく
完成形を書く場でもなく
組織を代表する場でもありません。
発信は、
思考の途中を言葉にする場です。
授業後に感じた違和感。
うまくいった理由の仮説。
まだ答えの出ていない問い。
それらを残していく行為です。
怖さが消えることはありません。
でも、怖さの正体が分かると、
怖いままでも書けるようになります。
そしてそれが、発信の最初の一歩です。
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